2016年




ーーー1/5−−− 新春の墓参の教訓


 
二十年以上前だが、家族でドライブへ出掛けた時のこと。帰路、日が暮れた頃、人里離れた山深い道を走っている最中に、車の燃料計が最低値を振り切れた。警告灯まで点いて、町場へ出るまでの道中、たいへん心細い思いをした。それに比べれば、大して深刻なものではなかったが、似たような事を、この正月に経験した。

 次女が帰省したので、次女にとって何年ぶりかになる墓参りへ出かけようという話が急遽持ち上がった。墓所は御殿場の富士霊園。往復400キロ以上、まる一日の行程である。天気の予報を見て、二日に実行することになった。

 当日は上々の天気。8時半に自宅を出た。運転は、ドライブ好きの次女に全て任せることにした。この時点で車の燃料計は8分の7を示していた。中央高速を東に進み、途中で現れた富士山に歓声を挙げたりしながら、双葉サービスエリアに到着。燃料の残は8分の6。常識的に考えて、まだ給油する状態ではなかった。

 勝沼の先で事故渋滞があるとの表示を見て、予定のルートを変更。一宮御坂インターで高速道を降り、一般道で御坂を越え、河口湖へ向かった。富士吉田から須走まで、再び高速道に乗った。車窓一杯に広がる富士山は、あらためて偉大な印象だった。須走インター出口にある道の駅で供花を購入し、富士霊園に着いたのが正午頃。うららかな陽気の中で墓参を終え、帰路についた。この時点で燃料計は、ほぼ半分。そろそろ給油しなければ。

 帰りはいつも、富士五湖を巡るルートをとる。籠坂峠を越えてまず山中湖、そして河口湖へ向かう。途中富士吉田の手前で大渋滞。浅間神社への初詣客で混雑したようだが、これは想定外だった。走りながら、ガソリンスタンドを探すも、けっこう見当たらない。河口湖を越え、西湖、精進湖へと進む道に入れば、もうスタンドなど無い。本栖湖から西に下り、身延方面に進む。やはりスタンドは無い。この地域の住民はどうしているのかと思ったくらいである。

 国道52号に出て、北上する。国道沿いならスタンドがあるだろうと判断し、高速道(中部横断自動車道)に乗らずに、そのまま行く。ところが、いっこうにスタンドが現れない。これは本来の国道ではないと気がついた。国道52号の表示にはなっているが、高速道の側道なのである。高速道の延伸地域には、ときどきこういう現象がある。そう気がついて、西へ曲がり、並行して走る本来の国道に入った。さすがにスタンドは次から次へと現れる。しかしどこも休業だった。国道なら、正月でも開いているスタンドがあるだろうという目論見は、甘かった。

 こうなれば、中央高速のサービスエリアで給油するしかない。この先で、給油所があるところと言えば、諏訪湖サービスエリアである。韮崎で中央道に乗った。この時点で、燃料計の表示は8分の2。夕闇迫る高速道をひた走り、八ヶ岳サービスエリアで小休止。ラーメンを食べて、お腹は満ち足りたが、ガソリンはついに8分の1。

 さらに進んで、諏訪インターを過ぎる頃、燃料計が点滅を始めた。こうなるとさすがに良い気はしない。以前計算したところでは、8分の1になっても、100キロくらいは走れる。だから、まだまだ余裕はあるはずだ。しかし、ガソリンタンクの中を見て、残量を確認しているわけではない。燃料計が誤動作する可能性も、ゼロではないだろう。諏訪湖サービスエリアまでの数キロは、ちょっと祈るような気持ちになった。

 何事も無かったかのように、車は諏訪湖サービスエリアの給油所に滑り込んだ。給油係の年配男性の態度が、少々ぶっきらぼうだった。娘はそれを感じが悪いと言った。家内は、ガソリンの価格が高いと不満を漏らした。先ほどまで車内に有った不安は、跡形も無く消え去っていた。

 今回の経験で、一つの教訓を得た。正月に遠出をする際は、一般道のガソリンスタンドは当てにならないということ。高速道のサービスエリアの給油所だけが頼りだということ。従って、高速を降りる前に、しかるべきサービスエリアで、満タンにすべきだということ。高速道だけを使うような移動なら、そんな心配も不要だが、行く先で一般道を長く走る場合は、この事を肝に銘じておく必要があるだろう。


 

ーーー1/12−−− 市民の日


 車で10分ほどの場所にある温泉施設「しゃくなげ荘」。以前は公営だったが、現在は民間に委託されている。レトロ調の建物で、登山者などには懐かしい施設でもある。

 このしゃくなげ荘、毎月4が付く日は「市民の日」ということで、市民なら入浴料金が半額になる。入り口のカウンターで、市内在住であることを証明する運転免許証などを提示すると半額になり、その際に市民カードなるものが頂ける。次回以降は、この市民カードがパスとなる。

 市民の日は、混んでいる。半額に引かれて訪れる市民が多いのだろう。私も、何回か利用させて頂いた。混んではいても、半額は嬉しい。特別待遇という、ささやかな喜びもある。

 そんなわけで、毎月4日、14日、24日は、気を付けるようにしている。ところが、意外とこれは見過ごしてしまう。気が付いたら、16日だったりする。また、4の日でも、週末はさらに混む事が予想されるので、避ける。それやこれやで、特権を行使したくても、なかなか思うに任せなかった。

 正月明けの4日、久しぶりに出掛けた。冬場は暗くなるのが早いし、寒さもこたえるので、いつもはなかなか足が向かないのだが、この日は温暖だったので、その気になった。

 駐車場は思いの外空いていた。玄関を入り、カウンターで市民カードを提示し、「これでお願いします」と言った。すると係りの初老の男性は怪訝そうな顔をして「市民の日は止めになりましたが・・・」と言った。こちらが驚きの顔になったのだろう、男性は重ねて「昨年3月一杯で廃止になりました」と言った。ずいぶん前に終わっていたものだ。ちっとも知らなかった。その間利用してこなかったというわけだ。

 係りは「ご入浴頂くなら、あちらの券売機で入浴券を購入して頂くことになりますが、いかがされますか?」と、この地域には珍しく丁寧な言葉で、しかも少し申し訳無さそうに言った。私は、その男性の誠実な対応に感じるものがあり、「せっかく来たのだから、利用させて貰います」と言って、券売機に向かった。

 思い出せば、以前は券売機など無かった。入浴料を払っても、領収書も無かった。もっともこの辺りの温泉施設は、どこでもそのようなものだったが。

 何故市民の日が無くなったのか。ちょっと考えてみた。

 市民だけを特別扱いにする事に対して、批判が出たのか。旅行客ならそんな事に文句も言わないだろうが、住んではいるが市民では無い、例えば別荘族あたりから苦情が寄せられたのか。住民税を払っていない者に、抗議の資格は無いなどと切り捨てる事はできないご時勢である。

 のんびりとした管理体制を一新し、券売機を導入した事により、対応が難しくなったのか。券売機に市民専用のボタンを付けたところで、運用が難しかろう。誤用を避ける工夫が必要だし、正しく使われたとしても、本人確認は必要だ。窓口業務が煩雑になり、文句も出るだろう。結局は、経営の効率化の前に住民サービスは削られる運命だったのかも知れない。もっとも民間委託事業だから、特別扱いの住民サービスなど迷惑なだけか。

 老朽化したしゃくなげ荘の代わりとなる施設が計画され、隣接地に建設中である。しゃくなげ荘が消えてなくなるのは、時間の問題である。私にとっても、今回が最後の利用となるだろう。





ーーー1/19−−− ジビエの味


 
昨年末に、友人夫妻と二対二で忘年会を行なった。いろいろな話題が交わされたが、その中でジビエの話が出た。私が、地元の仲間と月例の飲み会を行なっていて、メンバーの一人、猟友会の人が差し入れしてくれる鹿、猪、熊などの肉を時々食べるという話をした。すると奥さんが「ちょっと前まで自然の中で自由に走り回り、ストレス無く暮らしていた動物の肉を食べるんだから、味が違うでしょうね」と言った。私は改めて、なるほどと思った。

 牛、豚、鶏など、日常的に我々が口にする肉は、すべて飼育ものである。商品として生産されるわけだから、品質が一定となるよう工夫されている。なるべく消費者の好みに合うよう、調整もされている。つまり、人間の都合に合わせて作られたものである。

 ジビエは、必ずしも全て美味と言うわけではない。獣の種類によっては、味に癖があったり、身が固くて食べ難かったりする。年齢や雌雄の違いによっても差が出る。条件が同じでも、個体差で食感や味が異なることもある。野生の動物は、人間の好みとは無関係に生きているわけだから、当然の事ではある。

 山菜など、野のものを食べると身体に良いと言う。山菜を移植して庭で育てると、旨みが無くなるという話もある。一方、美味しく作られているはずの市販の野菜や果物から、昔のような味が無くなったとも聞く。美味しさを追い求め、癖を無くし、口当たりを良くするために改良を重ねた結果、そして収穫を安定させ、収量を上げるための合理化を進めた結果、植物本来の性質とは異なったものになってしまったのかも知れない。

 魚に関しても同じような事が言えるようだ。漁業が盛んな地域の人から聞いたことがある。鯛の養殖で知られた場所なのだが、地元の人はその鯛よりも、天然もののアジやキビナゴなどの刺身を好んで食べると。養殖魚の味は餌に左右されるらしい。そのように人の手で調整されたものは、飽きてしまうと言う。

 家内はあまり好まないようだが、私は野生の獣の肉を食べるのが好きである。美味しくて仕方ないというわけではない。正直言って喉を通り難い場合もある。それでも食べたいと思うのは、やはり自然のものだからだろう。野生の肉を頬張ると、縄文時代へタイムスリップしたような気にもなる。なんとなくロマンを感じるのである。

 自然に近い形の食物の方が、人の身体に良いという説もあるようだ。それが何故なのか、私は十分に理解していない。しかし、自然の中で自由にのびのびと、ということが何かを暗示するキーワードであることは、間違いないだろう。多少現代人の味覚に合わない部分があっても、自然の気が取り込まれるような味わいがあるのである。




ーーー1/26−−− 寿司屋のリアクション


 
だいぶ前のことである。東京神田に住んでいる母を訪ねた。ちょうど昼時だったので、外へ出て食事をすることになった。近くに美味しい寿司屋があるので、そこへ行こうと母が言った。たまたま来ていた姉と三人で、その店に向かった。信州ではなかなか美味しい寿司に出会えない。久しぶりに本場の寿司を味わえると思うと、ちょっとした興奮を覚えた。

 店に着いたら、すごく小さかった。カウンターに数席と、テーブル席が二つくらいだったか。店のたたずまいは、古びて年季が入っていたが、こざっぱりと片付いていて、馴染める雰囲気だった。カウンターの向こうの、小柄な初老の店主が、小気味の良い掛け声で我々を迎えた。「こういう店が美味いんだ」という台詞が飛び出す、グルメ漫画の一シーンのような店内の光景だった。

 カウンターに陣取った。カウンターの反対側の端には、常連とおぼしき老人が、銚子を傾けながら小皿の上の刺身をつついていた。店主はその老人の相手をしていたようだが、さっと切り上げて我々の前に立った。私と姉は、ガラスケースの中のネタを選んで、矢継ぎ早に注文をした。今回は母のおごりである。ためらわずに、好きなものを頼めば良い。

 たしかに美味しかった。これまで食べた寿司の中でベストではないかと、久しぶりに信州から上京した身には思えた。ネタが新鮮だし、シャリの味と大きさのバランスもピッタリだ。ガラスケースに並ぶネタは、種類は多いがそれぞれの量は少ない。店の規模、客の数に合わせて、余計な仕入れをしないからだろう。夕方になれば、ネタ切れも生じるだろうが、それに文句を付ける客もいないのだと思う。そういうこじんまりとした品質の高さが、職人仕事を感じさせた。

 母は、孫たちにも一回ずつはこの店でご馳走をしたいと考えていると言った。食事も含め、良いものを経験させることの教育効果を、両親はよく語ったものである。私も子供の頃、家族で銀座のレストランへ出掛けたことを、しかもそれが何度もあったことを覚えている。現在の母の財布では、繰り返しの贅沢はできないが、一度くらいは美味しい寿司を孫に食べさせてやりたいという祖母心なのだ。

 しかしこの店は、味もよいが値段も良い。大食らいの孫、私の息子が、腹いっぱいになるまで食べたら、たいへんな金額になる。そんな話になったので、私が冗談交じりに「この店に来る前に、なにか食べさせてから来たほうが良いかもね」と言ったら、母も姉も「そうね」と笑った。するとそれまで、黙々と寿司を握っていた店主が、やにわに口を開き、楽しそうに笑いながら「大盛りのカレーライスでも食べてから来て下さい」と言った。この思いがけないリアクションに合わせて、我々も大笑いをした。

 ところで後半になり、私がアワビを頼んだ。すると店主は急に神妙な顔になり、「生と蒸したのとありますが、どちらにしますか?」と言った。蒸した方が欲しいと言うと、「生を好まれる方が多いですが、蒸しアワビも美味しいんですよね」と、ホッと安心したような顔になった。そのリアクションも、印象に残った。
 



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